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フランス王家ルイ7世の時代をわかりやすく解説

この記事では、フランスのカペー朝のルイ7世についてわかりやすく説明します。

ルイ7世はフランスのカペー朝の王様の1人です。1120年頃に生まれ、17歳でフランスの国王になりました。

ルイ7世について覚えておくべきポイントは、3点あります。

  • アキテーヌ公領の女相続人アリエノールとの結婚
  • 十字軍への参加
  • アンジュー帝国との戦い
目次

アキテーヌ公領の女相続人アリエノールとの結婚

1137年にまだ王子だったルイはアキテーヌ公領の女相続人アリエノールとボルドーで結婚しました。

当時、フランスの王領地はパリや周辺のオルレアンが中心で、王領地は限られた土地しかなく領土は狭かった。

しかし、アリエノールとの結婚により、ボルドーやトゥールーズといったアキテーヌ地方(現在のフランス南西部)まで領地を広げることができた。

最側近ラウルの再婚問題

ヴェルモンドワ伯ラウルは、ルイ7世の最側近の一人であった。ラウルは既婚者であったが、アリエノールの妹との再婚を望んでおり、妻と離婚をしようと企てていた。

妻はシャンパーニュ伯家出身だったため、シャンパーニュ伯はこの問題を解決しようと教皇に相談をする。

その結果、教皇からラウルは破門され、ラウルの再婚を認めた聖職者たちは聖務停止命令を受けることとなった。

ラウルをかばうルイ7世は、シャンパーニュ伯と教皇を敵として戦いを挑むことになります。

どちらも優劣つけがたく、戦いは長期戦となりましたが、インノケンティウス2世が亡くなったことにより、ルイ7世陣営とシャンパーニュ伯陣営は和平を結ぶことになりました。

ルイ7世の十字軍遠征

1145年に東方のエデッサという場所がイスラム勢に奪われたという事件が起こりました。

それにより、ローマ教皇エウゲニウス3世が第二回十字軍遠征を呼びかけました。

フランスの権威ある聖職者であった聖ベルナールはウェズレーの地で、十字軍遠征についての説得を行い、神聖ローマ帝国のコンラート3世なども参加することになりました。

2年もの遠征準備期間を経て、1147年にルイ7世はコンスタンティノープルに到着します。この遠征には妻アリエノールも同行していました。る

ルイ7世はエルサレム巡礼を果たしましたが、エデッサを再び奪い返すための作戦には積極的ではありませんでした。

東方地域の貴族たちとの不和もあり、ルイ7世の十字軍遠征は失敗に終わりました。

ルイ7世によるフランス王国の内政

王国内の統治の発展

1150年代に国王会議ができ、ここでは王が側近と共に、政治や行政の判断を決定する会議が行われました。

主な側近とは、王族や教会の高位聖職者です。高位聖職者は資金に非常に余裕があるため、財政面でのスポンサーでもありました。

また、この時代に5つの重要な役職ができました。

王権の強化

ルイ7世は王権を誇示するために、1155年パリ近郊のスワソンという地で、フランス王国において和平を保つことを約束する王令を出しました。

王領地

アキテーヌ公領の女相続人アリエノールとの結婚により、アキテーヌ地方の広大な領地を得ることができました。しかし、彼女との離婚後は、領土はまたパリやオルレアンの周辺といった限られた土地のみになってしまいました。

しかし、離婚後にもルイ7世は領土を拡大する努力を惜しみません。ルイ7世は、妹コンスタンスにトゥールーズ伯レイモンド5世との結婚を提案し、トゥールーズ伯との良好な関係を保とうとします。

また、ブルゴーニュ地方にあるクリュニー修道院やヴェズレー修道院とも良い関係を持っていました。

この時代には、フランス王国の人口が増え、通貨も流通するようになったことから、王国が発展したことが伺えます。また、プレヴォという官職(司法官や行政官)の人数も増加しました。これは、王領地が増えたことを意味します。特にパリのプレヴォの人数の増加は、パリが王国の中心として栄えたことが分かります。

アンジュー帝国、プランタジネット家との戦い

アンジュー帝国とは

アンジュー帝国とはプランタジネット家が統治していた領土を指した歴史用語です。プランタジネット家は、12世紀から13世紀にかけてイングランド王国からフランス南西部までの広範囲の地域を統治していました。

プランタジネット家はイングランドでは王という立場ですが、フランス王国ではフランス王の臣下という立場でした。

ルイ7世の統治する王領地はアンジュー帝国よりもずっと小さく、ルイ7世率いるカペー家とプランタジネット家はライバル関係にありました。

アンジュー帝国の領土拡大

ルイ7世と王妃アリエノールは離婚していまいますが、離婚後すぐにアリエノールはルイ7世の敵方であるアンジュー伯アンリ2世と再婚します。

アリエノールは広大なアキテーヌ地方の女相続人であったので、この広大な土地はアンジュー伯アンリ2世、つまりプランタジネット家の領域になってしまいました。

また、アンジュー伯アンリ2世は母マルチダからノルマンディー公領も相続していたため、ノルマンディー伯でもありました。

イングランド王スティーブンが崩御すると、イギリス王位の継承も要求し、イギリス王にもなります。ノルマンディー公はイングランド王も兼ねていたため、イギリスの王位を継承する権利を主張しました

アンジュー伯アンリ2世と再婚したアリエノールはイングランドで戴冠式を行いました。

強大化するアンジュー帝国に対抗するため、ルイ7世はアンジュー家の内紛を誘うことに成功します。

そして、フランス王カペー家とアンジュー家は和平を結ぶことになりました。

ルイ7世の治世 まとめ

ルイ7世を理解するには、アリエノールとの結婚、十字軍遠征に参加した王様です。また、フランス王家を凌ぐほどのプランタジネット家との争いを勝ち抜き、フランス王国を発展に向かわせた王でした。

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この記事を書いた人

日本で働きながらフランスの国立大学にオンライン留学中。専攻はフランス史。フランス語DELF B2、英検準1級。旅行や美術館巡りが好きです。海外1人旅歴18年、これまでに30カ国・100都市以上を訪問。

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