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【フランス中世史】カペー朝の歴史3「敬虔王ロベール2世の治世」を解説

この記事では、敬虔王ロベール2世の治世について解説します。フランス中世、カペー朝の2番目の王様についてです。

目次

ロベール2世

敬虔王ロベール2世の治世は、996年~1031年までです。

970年~972年頃にフランス北部のオルレアンで生まれました。

ロベール2世の治世については、王の死後にフルーリー修道院長のヘルゴーが、王の治世について書き残しています。

敬虔王と言われる由来

ロベール2世は敬虔王と言われていることから、キリスト教に熱心なイメージが湧きますね。

名前のイメージ通り、歴代のフランス王の中で、初めて病人を治したとか、瘰癧患者に触れる儀式を行ったと言われています。

王を支えた人物

ロベール2世は教養のある人物であったようです。

彼の家庭教師のような役割を勤めていたのは、当時西ヨーロッパで大変教養のあった人物で、後にローマ教皇にまで登り詰めたオーリヤックのジェルベールです。

彼は、後にランスの大司教になり、最終的にはフランス王国初のローマ教皇シルウェルテル2世になります。

またオーリラックのジェラルドという人物もキリスト教社会では、実力者であり、彼もロベール2世を支えました。

結婚問題

ロベール2世は、988年にブルグント王のロザラと結婚しました。

しかしながら、ロザラとは離縁し、996年にブルゴーニュ王のコンラッド2世の娘、ベルトと再婚しました。

ベルトは敵方ブロワ伯ウードの未亡人だった女性でした。

さらに、ロベール2世と彼女は遠い親族だったことから結婚が禁止されている間柄でした。

そのため、時のローマ教皇グレゴリウス5世は、この結婚に反対して997年から999年の間、ロベール2世を破門しました。

ロベール2世の再婚

結局ベルトとの間に子供は生まれず、1003年から1004年頃に離婚しました。中世ヨーロッパの時代は、特に王家や貴族社会では、跡取りが生まれるかどうかはとても重要なことでした。

跡取りのいないロベール2世は、1003年から1004年頃にコンスタンスと再婚します。彼女は、プロヴァンス伯ギョーム1世の娘で、アンジュー伯の姪でした。

ロベール2世とコンスタントは、4人の子供に恵まれました。

長男ユーグは早くして亡くなったので、次男アンリが王位を継ぐことになりました。次男アンリは、1025年に18歳でランスにて戴冠式を行っています。

王権の強化

ブルゴーニュ公国の獲得

ブルゴーニュ公が亡くなると、ブルゴーニュ家の義息オットー・ギョームとカペー家は、ブルゴーニュ公の地位を巡って争います。この時に、カペー家がブルゴーニュ公の地位を獲得し、ブルゴーニュ公国はフランス領となりました。

ブルゴーニュ公国は、ロベール2世の息子である次男アンリ(後のアンリ1世)に与えられ、次男アンリはブルゴーニュ公の地位を継承しました。

キリスト教国としての同盟

フランス王のロベール2世と神聖ローマ帝国の皇帝が、会談をしました。これは、当時のキリスト教の司教たちによって実現しました。

このことから、西ヨーロッパはキリスト教国同士の和平が結ばれ、この地域において一層キリスト教の力が広まりました。

王の敵対勢力

カペー朝のライバルとして、大きな存在感を示していたのが、ブロワ伯です。

シャンパーニュ地方にあったことから資金を豊富に持っていました。シャンパーニュ地方には中世ヨーロッパの貿易の中心となった市場が存在していたことが有名です。

また、王領地のパリとオルレアンの隣接地域に領地を持っていたため、常に王と敵対関係にありました。

カペー家とブロワ家の敵対関係については、当時のシャルトル司祭フルベールの証言が残っています。

ロベール2世のまとめ

ロベール2世の時代は、まだ王権が弱く周りの貴族と同程度の力しか持っていませんでした。彼は、敬虔王と言われるように、キリスト教の力を利用して王権を強固にしようとしたことが分かります。

また、キリスト教国として近隣諸国との関係を構築し、ライバル勢力を牽制しようとしたと考えられます。

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この記事を書いた人

日本で働きながらフランスの国立大学にオンライン留学中。専攻はフランス史。フランス語DELF B2、英検準1級。旅行や美術館巡りが好きです。海外1人旅歴18年、これまでに30カ国・100都市以上を訪問。

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