この記事では、カペー朝の創始者「ユーグ・カペー」の治世についてわかりやすく解説します。
ユーグ・カペーによる統治
王位継承
ユーグ・カペーの治世は987年~996年で、45歳で王になりました。この時代の寿命は短かったので、かなりの高齢で王様になりました。
ユーグ・カペーはカペー朝を繁栄させるために、王が存命の内に息子と共に戴冠式を行い、次の世代に王位を継承しました。また、教会との繋がりによって王権を安定させようとしました。
実際に、ユーグ・カペーは987年のクリスマスに、息子ロベールと共に戴冠式を行いました。
また、息子の一人 Gauzlin de Fleuryは、ブールジュの大司教になり、カペー家はキリスト教との関係を強化しました。
ユーグ・カペーは王位を息子に継承させ、教会との関係を強化することによって王権を確立しようとしました。
カペー家の王領地
王領地とは、王が直接支配する地域のことを指します。ユーグ・カペーの祖先であるロベール家は代々、ネウストリアと呼ばれるパリやオルレアン周辺の地域を支配していました。
以下がユーグ・カペー率いるカペー家が支配していた地域です。
町:パリ、サンリス、オルレアン、エタンプなど
修道院:サンマルタン・ドゥ・トゥール、サン・ドニ、サンジェルマン・デ・プレなど
司教区:オルレアン、パリ、シャルトルなど
中世ヨーロッパでは、修道院はキリスト教徒の魂を救済する場所であると共に、一族の資産、財産、権力を守る場所としても機能していました。
公国の成り立ち
ユーグ・カペーが王になった時、王領地の周りにはいくつもの公国や伯領が存在していました。
公国ができた背景
9世紀末にヴァイキングからの襲撃を受け、各地を諸侯に守らせました。そのため、諸侯が力を持つようになったことが、公国が成立した理由の一つです。
また、ロベール家の大ユーグはヴァイキングから土地を守った英雄でしたが、彼が亡くなったとき、盟主となったのがユーグ・カペーでした。ユーグ・カペーはまだ未成年だったため、周りの有力な諸侯たちは、それぞれの権力を強めて独立を保つようになりました。
- 9世紀末~10世紀初頭に成立:ノルマンディー、フランドル、アキテーヌ
- 10世紀半ばに成立:ブロワ、アンジュー
- 11世紀以降に成立:ブルゴーニュ、サヴォア
フランドル伯領
フランドル伯はフランス王家と神聖ローマ帝国の皇帝どちらの家臣でもあり、イングランド王国とも関係がありました。
ノルマンディ公ギョームとフランドル伯家出身のマルチダが結婚したことにより、北フランスでの支配を強めました。
また、ブールジュなど商業が盛んな土地も支配していました。
ノルマンディ公国
デンマーク周辺にいた「北方から来た人」というのがノルマンディ人の名前の由来です。
ノルマン人は度々西フランスを襲撃していましたが、キリスト教に改宗することを条件に911年にノルマンディーの領地をもらいました。
ノルマンディー公リチャード1世はユーグ・カペーの姉と結婚し、カペー家との関係も強めていました。
ノルマンディー公国には、北フランスのいくつかの港があり、重量な場所として港を支配していました。
北フランスの公国・伯領地
ロワール川周辺にはブルゴーニュ、アンジュー、ブロワ伯領が存在していました。
アンジュー伯領
アンジュー伯家は近隣のブロワ伯家と長年ライバル関係にありました。
アンジュー伯はイスラエル巡礼にも行って、聖地にも支配地域を持っていました。
カペー家のロベール1世は、後にアンジュー伯の姪コンスタンスと結婚します。
ブロワ伯領
ブロワ家は代々カロリング家の家臣でした。
ブロワ伯チボーは中心的人物として有名です。
彼は格上の妻Liégeardと結婚することに成功しました。妻となったのは、カロリング朝のシャルルマーニュの次女でイタリアの王ピピンを祖先に持つヴォードゥワン伯の娘です。
さらに、彼女の母は922-923年にフランク王だったロベールの娘でした。
Liégeardは若い頃にノルマンディ公ギョームと結婚して、未亡人となった後にブロワ伯チボーと再婚しました。そのため、ノルマンディ伯家とブロワ伯家は同盟関係にありました。
ブロワ伯ウード1世はチボーからブロワ伯の地位を相続しています。
彼はコンラッドの娘ベルトと結婚し、ブルゴーニュとの良い関係を結びます。
993年にオットー3世の支援を受けて、ユーグ・カペーと息子を捉えたこともあるくらい、力のある名家でした。
ウード1世の姉エマはアキテーヌ公ギョームと結婚します。
またフランドル伯ボードワンとの同盟を結ぶなど力をつけていきます。
996年にウードとユーグ・カペーが亡くなると、ロベールはロザラと離婚して敵方ブロワ伯家のベルトと結婚します。
アキテーヌ公国
フランスの南にはアキテーヌ公国が広がっていました。
公爵はフランス王家や神聖ローマ帝国と関係を築いていきました。
中世のキリスト教世界で重要なクリュニー修道院は、910年にアキテーヌ公ギョームによってブルゴーニュ地方に建てられ、特にフランス南部で発展していきました。
建築物から見る諸侯たちの権力
カロリング朝の時代には、要塞は珍しかったのですが、カペー朝の時代になると塔や城が増えていきます。
要塞となる塔や城を建てることは、防衛のためであると同時に権力の証でもありました。
北フランスやロワール川周辺の特にブロワやシャルトルでは、防衛と居住を兼ね備えた建物ができるようになりました。
また、モット・アンド・ベーリーと呼ばれる丘の上に建てた木製や石造りの建築物も現れました。ブルターニュのディナン城を攻城する場面を描いたバイユーのタペストリーは有名な作品で、この建築物が描かれています。
まとめ
カペー朝の初代王ユーグ・カペーは、カペー朝を存続させるために、教会との関係を強化しました。この時代は、王家はまだ権力が弱く、周辺の地域に多くの強大な力を持つ諸侯たちが存在し、それぞれの公国や伯領を支配していました。
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