この記事ではフランス中世史・カペー朝の成立についてわかりやすく解説します。
西ヨーロッパ(現在のフランス)では10世紀末にカペー朝が成立します。カペー朝はフランス王国の最初の王朝で、初代の王は「ユーグ・カペー」と言います。
中世のヨーロッパには大きな帝国が存在し、その帝国を率いるカロリング朝が存在していましたが、10世紀後半になるとカロリング朝は衰退していき、カペー朝が成立します。
背景
カペー朝が成立する前は、ヨーロッパにはカロリング朝率いる帝国が存在していました。カロリング朝の皇帝亡き後、息子たちは帝国を分割して各地を治めることにしました。そして、843年にヴェルダン条約により帝国が分割されることとなりました。
カロリング朝衰退の理由
この時代北欧に住むヴァイキングからの攻撃によって帝国は脅威にさらされていました。
ヴァイキングからの攻撃に備えるために、皇帝は諸侯に各地を守らせることにしました。それにより、諸侯たちが帝国内各地で力を持つようになり台頭し始ました。
ロベール家の台頭
ユーグ・カペーの祖先にあたるロベール家は9世紀半ばに現在のパリ近郊にいた「強者ロベール」という人物です。強者ロベールは、ヴァイキングから土地を守ったことで英雄とされました。
ロベール家とは
ロベール家は代々ライン川の辺りに住んでいたようですが、いつ頃からフランス・パリ近郊に居住していたのでしょうか。
先述した843年にヴェルダン条約で、息子の一人「シャルル禿頭王」は西ヨーロッパ(現在のフランス)を相続することになりました。そのシャルル禿頭王に仕えるために、ロベール家はネウストリア地域(ロワール川とセーヌ川の間の地域)に移り住んできたようです。
カロリング朝とロベール家の攻防
9世紀末、カロリング家が歴代の王だった時に、王が急死し、888年強者ロベールの息子「ウード」が王に選出されました。これは次期の王が未成年だったため、また度重なるヴァイキングからの襲撃で帝国内が危機に瀕していた時代だったため、戦いで功績を挙げていたウードが王に選出されました。
888年強者ロベールの息子がウードが王に選出された後、王位は再びカロリング家に戻ります。
カロリング家に王位が戻った後も、ロベール家はカロリング家の側近として地位を守りつつ、権力を強めていきました。
9世紀末以降のカロリング朝の王様
- シャルル単純王
- ルイ4世
- ロタール
- ルイ5世
ロベール家の盟主たち
- 強者ロベール
- ウード
- ロベール(ウードの兄弟)
- ブルゴーニュ公ラウル(ロベールの婿)
- 大ユーグ
- ユーグ・カペー
カロリング家の凋落とロベール家の発展
強者ロベールがヴァイキングとの戦いで功績を残し、続いて息子のパリ伯ウードも優秀な人物でした。帝国の危機に対処するため、パリ伯ウードは王位に就きました。
しかし、ロベール家のパリ伯ウードが王になったあと、王位は再びカロリング家のシャルル単純王に戻ります。893年にシャルル単純王はランスで戴冠式を行います。パリ伯ウードとシャルル単純王の戦いは4年もの長期戦となりました。
そして、この戦いはシャルル単純王が勝利し、898年シャルル単純王は王位に就きます。この時点では、ロベール家よりもカロリング家の方が僅かながら力があったということですね。
922年には王国貴族たちの不満から反乱が起きます。兄のウードに続いて、ネウストリア候のロベールが王位に就きますが、翌年923年にソワソンの戦いで新王ロベールは戦死します。そのため、923年に王がいない事態となりました。
その後ロベールの婿、ブルゴーニュ公ラウルが王になります。
936年に息子の大ユーグがロベール家の盟主となりますが、王位に就くことを拒否します。大ユーグは王国トップの王としてではなく、王の側近として、王をも凌ぐ権力を持とうとしました。
そのため、936年にカロリング家のルイ4世に王位を渡します。続いて、ロタールが王位を継承し、ルイ5世がさらに王位を継承しました。
しかし、世継ぎがいないまま、ルイ5世が亡くなります。
カペー朝の成立
カロリング家のロレーヌ公シャルルとの王位継承の戦いを制し、ついにロベール家のユーグカペーが王位に就きます。
そして、ここからフランス王国の基礎を成すカペー朝が始まりました。
しかし、大ユーグが亡くなった時に、ユーグ・カペーはまだ未成年だったため、主要な家臣たちは権力を強めて独立してしまいました。このような中で、初代王ユーグ・カペーはどのように王権を確立していくのか・・・
ユーグ・カペーの治世については、こちらの記事で解説しております。
最後までお読みいただきありがとうございます。
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